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横浜地方裁判所小田原支部 平成11年(わ)252号 判決 2000年7月28日

主文

被告人を懲役一二年に処する。

未決勾留日数のうち三六〇日を刑に算入する。

ナイフの刃体一本(平成一一年押第一八号の1)、ナイフの鞘一本(同押号の2)、ナイフの柄一本(同押号の3)を没収する。

理由

(犯行に至る経緯)

被告人は、昭和六三年以降、業務上過失傷害、道路交通法違反、傷害、銃砲刀剣類所持等取締法違反の各罪により、合計五回懲役刑の宣告を受け、平成元年三月二一日から平成元年一〇月四日まで、平成四年一一月二六日から平成五年六月三〇日まで、平成六年四月七日から平成七年四月二日まで及び平成八年七月二七日から平成一〇年六月一日まで、刑務所内で生活し、平成一〇年六月二日、横浜刑務所を出所した。

被告人は、出所後、長男方に居候したが、受刑中の手術によって、人工肛門を付けたために職場条件が限定されてなかなか職に就けなかった。被告人は、長男からもらう月二万円程度で、生活費、医療器具代等を賄うような生活状況であったために、被告人が住んでいる平塚市から何らかの公的な援助を得たいと考えた。そこで、被告人は、まず、障害者手帳を取得しようと考えて平塚市役所に相談したが、取得要件に該当しないとの理由で取得することができず、次に、生活保護を受けようと考えて平塚市役所に相談したが、これも稼働能力のある長男と同居していたのでは要件に該当しないとして受けることができず、将来の生活に不安を感じていた。

平成一一年五月二六日、平塚市から被告人宛に届けられた「国民年金老齢基礎年金の裁定請求について」と題する通知書を見て、被告人は、以前、年金の保険料を支払っていたことや、六月二日で年金支給開始年齢である六〇歳になることから、年金を受給できるものと思い込み、五月二八日午前、神奈川県平塚市浅間町九番一号所在の平塚市役所保険年金課を訪ねた。被告人が、国民年金窓口のカウンターまで行くと、平塚市健康福祉部保険年金課職員のAが応対した。Aは、被告人については保険料の支払回数が所定の三〇〇か月のうち四九か月分不足し、このままでは満六〇歳から年金を受給することができないこと、年金を受給するためには不足分の保険料を満六〇歳の誕生日までに全額支払うか、高齢任意加入制度により資格期間を満たすまで加入して保険料を支払う必要があることを説明した。しかし、日々の生活にも困窮していた被告人には保険料を支払うことができないことから、被告人は、Aに対して、不足分の保険料を支払わずに年金を受給できる方法がないかを尋ねたが、Aは、そのような方法はないと回答した。被告人は、年金が受給できないのであれば、今後の生活のために、今まで支払ってきた保険料を少しでも返還して欲しいと申し入れたが、Aは、法律上、保険料を返還することもできないと回答した。被告人は、何とかして生活を楽にしたいと考え、Aに何度も食い下がったが、回答は変わらなかった。被告人は、Aの説明を聞いて、年金を受給することもできず、保険料の返還も受けられないのは不合理であると思うとともに立腹し、その怒りをAに向けて、「探し出してでも刺してやる」と言って、平塚市役所を後にした。

被告人は、期待していた年金収入が得られなくなったことから、就職先を見つけるために職業安定所に立ち寄ったが、就職先は見つからず、年金を受給することができないことのうっぷんを酒で晴らすために帰宅途中に酒屋へ寄り、日本酒を五合程買って帰り、家に残っていた二合の酒と合わせて、一時間くらいの間に飲み終えた。被告人は、酒を飲みつつ、Aの説明にどうしても納得がいかない、保険料を払っていたのに全く年金を受給することができないのは不合理であり、何らかの方法があるに違いない、Aはその方法を知っているのに教えないなどと思い込み、そして、ナイフで脅してでもAから年金の受給方法などを聞き出そうと考え、自宅台所にあった木製の柄及び鞘付のステンレス・スチール製果物ナイフを腹とズボンの間に挟んで入れて、自宅を出た。

被告人は、午後二時二〇分ころ、平塚市役所保険年金課を訪れ、カウンター越しではナイフで脅すことができないと考えて、Aをカウンター外の通路部分に設置された長椅子のところに誘いだした。被告人は、Aに対して、不足分の保険料を支払わないで年金を受給する方法を教えるように、また、これまでに支払った保険料の返還を再度詰め寄ったが、Aは、これまでと同様の説明をした。被告人は、Aが、自分が困窮していることに親身にならずに、法律を盾にして全く被告人の言うことを聞かないと考えて、Aに対して激しい怒りをぶつけ、「俺と一緒に死ぬかっ。」などとも言って脅迫したが、Aの回答は変わらず、Aは、「何を言われてもできないものはできません。」と断った。

(犯罪事実)

第一  被告人は、平成一一年五月二八日午後二時三〇分ころ、神奈川県平塚市浅間町九番一号の平塚市役所一階において、年金受給に関し、平塚市健康福祉部保険年金課職員のA(当時四七歳)から、被告人が期待するような回答を得られないことに激しく腹を立て、Aが死亡するかもしれないと思いながら、あえて、右手に持った木製柄付のステンレス・スチール製果物ナイフ(刃体の長さ約一〇センチメートル、平成一一年押第一八号の1、3)で、Aの腹部を一回突き刺し、よって、平成一一年五月三〇日午前六時一八分ころ、平塚市南原一丁目一九番一号の平塚市民病院において、Aを腹部刺創による大動脈損傷に基づく多臓器不全により死亡させて殺害した。

第二  被告人は、業務その他正当な理由による場合でないのに、平成一一年五月二八日午後二時三〇分ころ、神奈川県平塚市浅間町九番一号の平塚市役所一階において、果物ナイフ一丁(前同押号の1から3)を携帯した。

(証拠)《省略》

(補足説明)

一  判示第一の事実について、被告人及び弁護人は、被告人には、殺意はなかったと主張する。裁判所は、関係証拠を総合考慮して、被告人には、未必的な殺意があったと認定したので、その理由を補足的に説明する。

二  関係証拠によれば、以下の事実を認定することができる。

1  本件犯行に使用された凶器は、刃体の長さ約一〇センチメートルの殺傷能力が認められる鋭利なステンレス・スチール製果物ナイフであり、被告人は、その殺傷能力について十分な認識を持っていた。

2  本件犯行により、被害者は、左上腹部、左肋骨弓直下部分に紡錘形の創口がほぼ上下方向、上創角尖鋭、下創角鈍で、幅〇・一センチメートル強、創洞が、ほぼ後方へ水平に向かい、肝臓左葉切破、小網貫通、膵臓切破し、腹大動脈を貫通し、腰椎左側軟部組織内に終わる全長約一〇センチメートルの腹部刺創を負わされた。

3  被告人は、長椅子に座った被害者の正面に前傾姿勢で立ち、両膝で被害者の両膝を押さえるようにして、左手を被害者の肩ないし後方のカウンターにかけるようにして、被害者に詰め寄った上、右手に果物ナイフを持ち、右腕を肘の部分から折り曲げるようにして、右手を被害者の腹部に押しつけるように、上腹部付近に向けてほぼ水平に素早く前に突き出して引き戻すようにして、果物ナイフで被害者の腹部を一回、刃の根元まで突き刺した。

4  被告人が、果物ナイフを被害者に向けて突き出した際、被害者ともみ合っていたというような状況にはなく、その際、果物ナイフが、被害者の身体の枢要部に刺さらないように特に配慮したという形跡もうかがわれない。さらに、被告人は、被害者を果物ナイフで刺した後は、その場から逃走しようとしたものであり、被害者について救命行為を行おうとした形跡もない。

5  被告人は、年金受給に関し、平塚市健康福祉部保険年金課職員であった被害者から、被告人が期待するような回答を得られないことに激しく腹を立て、その怒りのはけ口を被害者にぶつけたものであり、その際、殺意を抱いたとしても不自然ではない状況にあった。

三  二の認定事実によれば、被害者の創傷の部位は、身体の枢要部であり、被告人は、その部位を突き刺すことを認識していたものと認められる上、本件果物ナイフは人に致命傷を与えるのに十分な凶器であり、被告人は、その果物ナイフの形状を十分認識していながら、相当強い力で突き刺したもので、現実にも、その負傷が原因で被害者が死亡していること、被告人には、殺意を抱く動機が認められること、被告人は、果物ナイフが、被害者の身体の枢要部に刺さらないように特に配慮したという形跡や被害者について救命行為を行おうとした形跡もないことからすれば、被告人は、被害者を、果物ナイフで刺した際、殺意があったと認めるのが相当である。そして、被告人は、被害者を果物ナイフで一回刺したのみで、それ以上の攻撃を加えていないこと(もっとも、被告人が被害者を果物ナイフで刺した際、柄が刃体の部分から抜けてしまい、刃体の部分のほとんど全部が被害者の体内に刺入してしまっていたから、再度刺すことは不可能であった。)。被害者に対する怒りは認められるものの、被害者をどうしても殺害しなければならないような予めの事情は認められないことからすれば、被告人の被害者に対する殺意は、行為の態様等から推認できる突発的で、かつ、未必的なものであったと認めるのが相当である。

四  以上に対して、被告人は、小さいナイフでは被害者が死ぬことはないと考えていたなどと供述するが、現実に、本件果物ナイフの刃体の長さに見合った創洞の長さの傷害を被害者に負わせ、それが原因で被害者が死亡したものであり、果物ナイフが十分な殺傷能力を持っていることは客観的には明白であること、その果物ナイフを被告人自ら自宅から持ち出してきたものであって、その形状を十分認識していたこと、被告人は、それを強い力で被害者に突き出したものであり、その結果、被害者が負傷したのに、救命行為をした形跡もないことなどの被告人の一連の行動を考察すれば、被告人には、被害者の生命の危険に対する無関心な態度が認められ、被告人の小さいナイフでは被害者が死ぬことはないと考えていたとの供述は、不自然かつ不合理であって信用できない。また、被告人の殺意について疑問を投げかける弁護人の主張するその余の点について検討しても、被告人が、被害者に対して、果物ナイフを刺した際、未必的な殺意を抱いていたことについて疑問を抱かせるものとまでは評価できない。したがって、弁護人の主張はいずれも採用できない。

(累犯前科)

一  事実

1  平成六年三月二三日 横浜地方裁判所小田原支部宣告

傷害、銃砲刀剣類所持等取締法違反の各罪 懲役一年二月

平成七年四月二日 刑執行終了

2(1の刑執行終了後の犯行)

平成八年七月一二日 横浜地方裁判所宣告

傷害罪 懲役二年

平成一〇年六月一日 刑執行終了

二  証拠

前科調書、一の1の調書判決謄本、2の判決書謄本

(法令の適用)

罰条 第一 刑法一九九条

第二 銃砲刀剣類所持等取締法三二条四号、二二条

刑種の選択 第一 有期懲役刑選択

第二 懲役刑選択

累犯前科(いずれも) 刑法五九条、五六条一項、五七条

(ただし(第一については、更に刑法一四条)

併合罪の処理 刑法四五条前段、四七条本文、一〇条、一四条

(重い第一の罪の刑に加重)

未決勾留日数の算入 刑法二一条

没収 刑法一九条一項一号、二項本文

(何人の所有にも属さず)

訴訟費用の不負担 刑事訴訟法一八一条一項ただし書

(量刑の理由)

本件は、執務時間中の市役所内で、職務上住民と応対していた市役所職員であった被害者が、その応対の相手方であった被告人から果物ナイフで刺し殺されたという殺人及びその際の果物ナイフ携帯を内容とする銃砲刀剣類所持等取締法違反の事案である。

被告人は、前記の経緯から本件に及んだものであるが、その動機は、短絡的であるというほかない。犯行態様についてみると、被告人は、刃物による攻撃など全く予想せずに、誠実に職務に従事していた全く無防備の被害者に対して、殺傷能力の認められる凶器を使って、その身体の枢要部を突き刺したものであり、一方的で危険な犯行である。被害者は、被告人の無理な要求に対し、辛抱強く、丁寧に、理を尽くして応対していたもので、落ち度は全くない。被告人は、全く見当違いな怒りによって被害者の生命を奪い去ったもので、本件の結果は誠に重大である。結婚して満四七歳という年齢で充実した人生を送っていた被害者の無念は察するに余りあり、遺族の悲しみは深く、遺族が被告人の厳重な処罰を希望しているのも当然である。被告人は、被害者の遺族に対して見るべき慰謝の措置を講じることもなく、将来的にも慰謝の措置がとられるめどはない。本件は、白昼、市役所内において、市民に応対する職員に対してナイフを突き刺して殺害したという事件として、地域社会や関係者に与えた衝撃も大きい。

その上、被告人は、これまで、凶器を使用した態様の傷害罪により、合計三回懲役刑の実刑判決を受けて刑務所で服役した経歴があり、前刑の執行終了後一年も経過していないのに本件各犯行を行っている。以上によれば、本件の犯情は極めて悪く、被告人の刑事責任は重大である。

他方、被告人は、前刑受刑中に直腸癌の手術を受けて人工肛門となり、この障害のために思うように仕事にも就けず、同居していた長男からもらっていた僅かばかりの現金で生活し、医療器具にかける費用にも事欠くほど生活にも困窮していたが、法定の要件を備えていなかったとして障害者手帳の交付も受けられず、稼働能力のある長男と同居していたために生活保護の受給を受けることもかなわなかった。そして、被告人は、受給資格の有無に関わりなく、年齢から一律に送られてきた年金に関する通知を一目見て、かつて保険料を支払っていたことを思い出し、被告人自身も年金を受給することができると期待に胸を膨らませて市役所を訪れたところ、市役所の担当者であった被害者から、現行法制上は、法定の保険料納付額に足りないために、被告人が不足分の保険料を早急に全額納付しないと年金を受給することができず、既払保険料は全く返還できないと説明されても納得できなかったという被告人の立場や境遇自体には同情を禁じ得ないところがあり、社会保障制度のあり方や、刑務所における受刑者に対する年金関係の周知や手続の方法などにも検討すべき余地のあることが窺われる。また、被告人は、現在では、被害者を殺害したことを悔い、反省の日々を送っていると認められる。

以上のような諸事情を総合考慮して、被告人の刑を定めた。

(求刑 懲役一五年、果物ナイフの没収)

(裁判長裁判官 山﨑健二 裁判官 荒川英明 西村英樹)

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